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チャールズ・レニー・マッキントッシュとヒルハウス_建築20世紀より1990.12

■チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh, 1868〜1928年)
1868年       生まれる。(明治元年)
1884年<16才>建築を始める。
      建築家、ジョン・ハチソンに師事。同年グラスゴー美術学校に入籍
1889年<21才> ジョン・ハニマン&ケペ事務所に移籍。以降25年間同事務所で活動 
1902年<34才> パートナーに加わる。ハニマン&ケペ&マッキントッシュ事務所と改
1913年<45才>  ハニマン&ケペ&マッキントッシュ事務所のパートナーを解消  
  (第一次世界大戦)
1914年<46才>  ロンドンのチェルシーに移居しアトリエで活動
1923年<54才>  以降は、建築の仕事から完全に離れ、南仏で水彩画に専念。
1928年<60才>  12月10日、舌癌に冒され、生涯を終える。

 マッキントッシュは、1868年に英国スコットランドの工業都市、グラスゴーに生まれた。19世紀末当時のグラスゴーは、大英帝国のロンドンに次ぐ第二都市であった。ヨーロッパ大陸の中でも、また世界的に見ても活力が集中する技術革新のメッカ的存在の都市であったし、紡績や工業製品、特に造船業、蒸気機関車両などの重工業を中心にした加工貿易で巨大な富を獲て、繁栄と膨張の一途をたどるモダン・シティであった。C.R.マッキントッシュは、きたるべきユートピア社会への希望と世紀末のデカタンスが共存していたこの都市で、時代と世紀の変わり目を生き抜いた建築家であった。
 マッキントッシュが実際的に建築に携わり、設計活動を行ったのは、グラスゴー美術大学在籍期間を除けば、1890〜1920年頃までの30年足らずの間であったが、その作風は、短期間のうちに加速度的な変遷を繰り返している。初期の1890年代前半は、ボザールを規範としたアカデミックな建築教育によるものに始まり、後にアーツ・アンド・クラフトに傾倒して行き、そしてマッキントッシュ特有の引き伸ばされたような曲線とステン色などの素材感を生かした淡い色彩を示すアール・ヌーボー様式へと進むのである。1900年以後には、正方形を基本とする幾何学的抽象形態に移り、そして色彩も素材を塗り消してしまう、白、ピンク、黒、シルバー色に変わるのである。後、1910年以降は、より複雑な幾何学的形態が織りなす晩年のアール・デコ様式となり、同様に機能性とより抽象的な方向の、インターナショナル・スタイルを見通したものに至っている。
 この変遷は、彼が移り行く時代の表現者そのものであったことを物語り、当時の技術革新に伴う社会的要求の急激な変化に対応しようとしていたことを想像させるものである。またそれは、同世代の建築家であるP.ベーレンスや、ホフマン、オルブリッヒ等も同様にたどった変遷であると言えるだろう。
マッキントッシュの代表作品となったグラスゴー美術大学は、その変遷を明らかに窺えるし、建築に対する作風、理念といったものが最も素直に表現された力作である。それは、コンペ設計(1896年)に始まり、第一期(1897〜99年)、第二期工期(1906〜09年)の終了する15年間を経て完成する。第一期では、アール・ヌーボー様式でエレメントが構成され、第二期では、幾何学的エレメントにより重点を置くアール・デコに至っており、モダニズムへと展開した15年間の歴史上の流れと移り変わりの過程をそのまま示し、また2つの様式の関係を考察できる貴重な建築である。
1900年からの5年間は、マッキントッシュにとっては、大切なターニング・ポイントを迎えることになった。彼が中心となり、グラスゴー美術大学の仲間であった、H.マクネヤー、マーガレットとフランシス・マクドナルド姉妹たちと“ザ・フォー”と呼ばれたグループを組み、彼らは、ヨーロッパ大陸においてもモダニズムを先駆ける中心的アバンギャルドとして活躍し、また、マッキントッシュにとってもヨーロッパでの活動およびゼセッションとの結びつきは、大いなる刺激となったはずである。
 大陸の主要都市であった、ウィーン、ドレスデン、ベルリン、トリノ、パリ、モスクワで開催された各種のモダン・インテリア・エキシビションへの参加は、マッキントッシュ及び“ザ・フォー”らの存在が、すでにインターナショナルな名声を得ていたと共に、大陸での重要な立場にあった証である。ヨーロッパの次世紀を担った若き建築家、芸術家たちに新鮮な刺激と強いインパクトを与えていたに違いなかったであろうし、時代が求めていたフリースタイルのきたるべきモダニズムへの建築家像そのものであったと考えられる。 晩年は、グラスゴーを去り、ロンドンに移りすみ、第1次世界大戦の始まる1914年以後は、アール・デコの秀作となるバセット・ローク邸(1917〜20年)、及びウィロー・ティー・ルームの地下に増設された、1917年のダグ・アウト・ルームを除けば際だった活動を示さず、後のバウハウスに受け継がれるゼセッショニスト達の活躍に反して、1923年以後には、アバンギャルドのマッキントッシュは、全く建築の仕事から離れてしまい、1928年12月に他界するまで南フランスで水彩画に専念していたのである。                             

■ヒル・ハウス(Hill House)(1902〜04年)
ヒル・ハウス(Hill House)は、マッキントッシュの代表作となった住宅である。スコットランド地方の伝統的な民家様式である、スコティッシュ・バロニアルスタイルを礎に、マッキントッシュの特性である幾何学的抽象性とを取り合わせたデザインであった。
 この住宅の建つヘレンズバラ(Helensburgh)は、当時の蒸気機関の発達と共に鉄道網が整備され、グラスゴー近郊の地域と十分な連絡が可能となり、中産階級達のために開発された新興の高級住宅地である。グラスゴー市内から20マイル程離れた汽車で1時間足らずの所にある。ヒル・ハウスは、名のとおり、自然の広がるクライド河口の美しい景観を望む小高い丘のうえに建ち、スコットランド地方の遠々と丘の連なる田園風景が見下ろせる敷地である。
 クライアントは、グラスゴーの出版業を営む実業家、ウォルター.W.ブラッキー(Walt--er.W.Blackie)氏であり、若きマッキントッシュのよき理解者となり、その後、ブラッキーは、人生を終えるまでの50年間をヒル・ハウスで過ごすことになるのである。
ヒル・ハウスの平面は、マッキントッシュの初期の住宅、ウィンディー・ヒル、並びにP.ウェブによるW.モリスの住宅であるレッド・ハウスと同様に住居部とサービス部が90度をなす機能性に重点を置いたL型プランである。 そして、開口部の位置と大きさや家具の配置などベッド・ルームに代表される、計算し尽くされた設計に止どまらず、壁面ステンシル並びに、ファニシングから家具、照明類、そして彼の妻、マーガレットによるエンブロイド類に至る徹底したトータルデザインが行なわれ、唯一ブラッキーの希望であったダイニングセットを除き生活に関わるあらゆる部分に渡りデザインを行ったのである。1901年に応募された理想的な住宅であったはずの“芸術愛好家の家”のコンペ案とは計画規模は異なるが、外観そしてその理念に近く、居間とミユジックルームを結び付けた、完成度の高い理想的なモデル住宅として、スコットランドの地で実際に建てられたのである。
( 木村博昭 建築20世紀原稿より)