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武田五一と旧勝田邸2009.11

 旧勝田邸は、神戸港を一望する高台にある。阪急王子公園駅から、摩耶山に向かい急斜面を登りきると、広大な敷地に繊細な黒白タイルによるストライプ模様の土塀に囲われた大きな和風住宅が現われる。
 この2階の縁側廊下からの眺望は,眼下に国内外の出入船で賑わう神戸港を見下ろせ、大阪湾を望み、泉州、紀州、淡路島まで一望でき、ここを訪れる誰しもが、その情景に感動するであろう。そして、当時の勝田銀次郎の財力とその大成をこの眺めで一瞬にして理解できるだろう。勝田銀次郎は、明治6年に松山に生まれ、始めは、大阪の貿易商社に勤めその後,勝田汽船を設立し、海運業で巨万の富を一代で基いた。そして、神戸市議、貴族議員、この邸宅を手放した後神戸市長と成り、昭和の阪神大洪水で並みならぬ奮闘ぶりから、名市長と市民から慕われた人物で、昭和27年に死去する。
 勝田銀次郎が、当時の海運業の躍進で絶頂期であった大正8年に、この摩耶山麓青谷の地に、1万坪の地所を得て、武田吾一(1872年—1938年)に設計を依頼し、この自邸を起工する。大正11年の夏頃に第一期の居住部、建物の総坪数400坪が完成する。当時、須磨御殿と呼ばれ、この邸宅には、夫人と幾人家かの使用人が住んでいた。丁度、武田吾一は、建築家として、油の乗り切った、関西の建築界の第一人者として活躍した時期である。
 しかし、その後の海運業の不況で、2期と3期の客殿と玄関部分の工事は見送られ、未完作であった。ついには邸宅は、一期完成から数年後、大正15年には手放す結果となり、坂下の小住宅に移った。そして、立地のすばらしさから、昭和8年に天理教に譲渡され、ほぼ当時のままで現在も現存し、教団の手厚い保護のもと維持管理されている。
 
 阪神間の田園住宅

 旧勝田邸の建つ阪神間の六甲山麓摩耶山、御影、住吉、芦屋に繋がる山手は、南北軸に海辺と山側の間隔が近く高低差のある眼下にパロラマを望む景観、南斜面地の良好な理想的な田園宅地である。田園宅地の起こりは、英国の産業革命時に都市環境の衛生と悪化により、郊外に健康的な田園住宅の開発が始まる。中産階級のブルジュワ達は、こぞって、郊外に健康的な環境の地に住宅を望んだ。それは、鉄道網の発展に伴い、1902年に出版されたハーワードの田園都市論のレッチースの例や、20世紀のモダニズム住宅の先駆けとなるCR マッキントシュ(1868年〜1928年)のヒルハウス(1902〜3年)も衛生的な住環境を意識した田園住宅であった。ヒルハウスの建つヘレンズバラは、工業都市グラスゴーの海辺河口の鉄道の発展と共に開発された市内から1時間あまりの高級住宅地で、緩やかな南斜面の豊かな光量と緑に囲まれた、一区画が広大な田園宅地である。このローションは、多分に旧勝田邸の敷地の様子と似ている。高台から見下ろす緩やかに下る芝生床の地形の庭と借景のあるランドスケープ、南面に向けられた主室の配置、気候の状況から異なるがサンルームのような光量を最大限にとる開口部等、重なる点が多く、私には、この勝田邸が日本のヒルハウスに思えた。
 同様に我が国にもその田園住宅の考えは、早くから取り入れられる。明治以降、大阪は、工業地として発展し都市人口の増大と過密化により、不良住宅地と都市環境の衛生が問題化し始める。そして、スプロール化に因って、この阪神間に盛んに住宅地開発が始まる。官製鉄道(JR)は、1874年と早くから梅田と三宮間を結び、阪神電気鉄道は、清澄み空気、健康環境、風景、園芸という郊外の利点を記し「郊外住宅のすすめ、1908年」を出版し、保養地として、また健康を強調し、盛んに宅地開発が行われていた。

 武田五一のこと
 
 この勝田邸の2階縁側から、その遠方に広がる神戸港の風景を眺めながら、しばし,当時の武田五一の想いに巡らした。
 武田五一は、1872年、広島の福山に生まれる。東京帝国工科大学 造家学科に1897年に入学、その後大学院に学び、27歳にして東京帝国工科大学助教授に成り、図案学研究のため、1901年から1903年の2年4ヶ月の間、英国、ドイツ、フランスに留学し、1902年設立の京都高等工芸学校創設の図案科教授に不在中から任命された。1918年に名古屋高等工業学校長に転任し、1920年に京都帝国大学に建築学科を設立し教授に就任している。1931年66歳で亡くなる。関西建築界における建築家教育の礎を築き、数々の建築物の実践的業績と合わせ、彼を抜きにしては語れず、また、工芸の教育者、啓発者としての武田五一の功績も多大である。
 彼が学んだ建築教育は、学生当時の就学図面から見れば、英国のビクトリア時代のアカデミックな建築教育を受けた学生そのものである。日本の建築家教育は、東京帝国大学の全進の工部大学の造家学科に始まる。その設立者は、明治の御雇い外国人の一人であった新進気鋭の英国建築家である、ジョサイア コンドルで、明治9年から18年まで教鞭をとり、その後永住する。恐らくは、武田五一の 英国留学の手引きをしていたであろうと想像出来る。また、その工部大学の教頭として、日本の工学の礎を築くヘンリー ダイアは、グラスゴー大学の土木工学と機械工学の両方の初代の工学学士をもつ人物である。グラスゴー大学の工学学士の創設者であったケルビン学長は、当時、多くの日本人留学生を受け入れ、工部大学とグラスゴー大学とは親密な関係があった。恐らく、武田五一がはるばるグラスゴーを訪れ、そして、同世代にである当時新進の4歳年上のマッキントシュの作品に興味を抱き、影響を受ける事も合点行く。

 和洋折衷と国際性
 
 武田五一自身、西欧留学を終え帰国した頃の若き初期作品は、福島行信邸の如く、当時のフリースタイルの新進の英国建築家と見分けの着かない作品である。マッキントシュの初期作品もそうであるように若き建築家は、当然、流行に敏感であり影響を受け、それがダイレクトに作品に現れている。そして、日本の近代化も、西欧様式の建築の模倣が国際化であった。
 その後の、武田五一の和洋折衷の様式の考えは、モリスの始まる、マッキントシュ、ホフマン達の初期モダニズム建築家の思想に基づくのだろうと思える。マッキントシュの住宅のように、地域様式のアイデンティーを重要として、スコティーシュバロニアのバナキューラーな民家様式と、時代的テーマーである抽象性との格闘が、ヒルハウスの誕生となる。この新時代のアールー ヌーヴォー運動やゼゼッションのデザイン様式は、各国各様の地域の伝統様式を踏まえた上に、成り立つ事を武田五一は、を十分に理解していたと思える。
 武田五一が旧勝田邸の設計を手がけた時代には、建築家として大成していた時期である。自国の生活様式やアイデンティーを踏まえた上で、日本の伝統様式と正方形を多分にあしらうゼゼッションの抽象幾何学との折衷を全体に展開し、日本的ゼゼッション様式を確立していたことが伺える。ここに、グラスゴー派、ウンーン派でもない、武田五一の独創性があり、日本建築の近代性と国際性を見いだしていたと思える。そして、国境を越えたローカルな地域様式のインターナショナルな思想の繋がりは、その後、よりグローバルに展開し、次世代の日本のモダニズムの建築家達に受け次がれて行く。 
 外観は、全体的に和風であり、押さえ気味で地味である。内部は、広大であり、特に造作の多彩さとその密度は高く、細部に工芸的な装飾が施され、贅を尽くし、武田五一の独特の和洋折衷の住空間であり、設計者の力量は然ることながら、当時の工芸面での職人技の達者とすばらしさを、今回、旧勝田邸を訪れ新たに再確認した。 やはり、この邸宅の中心には、毎日、神戸港を眼下に見渡せるところに、桐の間の主人室と隣り合わせの夫人室の菊の間があり、そして、縁側には、光量がさんさんと注ぐ最大限の開口部が設け、その両室には、銘々に自然花を描いたアールー ヌーヴォー的な襖絵が描かれ、陶板の長押飾りがあり、優雅で格調高く、武田五一の理想とする営みの住まいであったと思えた。
 旧勝田邸は、新時代に相応した住環境を確立し、その後の近代和風住宅のモデルであったと思える。その後、急速に阪神間の六甲山麓は住宅地として開発され、新興の中産階級の企業人たちは、競って邸宅を建て、現存する名建築の住宅が数多く残っている。

木村博昭