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関西建築家ボランティアの活動報告21997

阪神大震災ー関西建築家ボランティアの2年間

あの震災から2年の歳月が過ぎようとしている。直接の被害を受け、家をなくされた被災民達は、いまだ一年間のはずだった仮設住宅住まいが続いている。阪神間を行き来する傍らに目にする、年末のあわただしさを見ていると、震災など何事も無かったかのような錯覚をするほどに、日常生活はすっかりと平常に戻ったように見える。私自身も、仕事の忙しさと日常の出来事に流され、喉元過ぎれば…である。枕元にあったリュックサックも隅に追いやられ、家の懐中電灯のある場所さえ今はどこにあるのか解らなくなってしまい、あれほど高ぶっていた感情も今は冷め、その悲惨さも、街の記憶も、またその痕跡も復興と共に次第に薄れてゆくのを感じている。過去を振り返っていても仕方がないにしても、震災に直接関わった者でさえ、時と共に記憶は薄れるのだから、社会からの関心が薄れるのも当然である。この2年間、その成果を思うと、いったい我々に何が出来たのであろうか。
もともと関西建築家ボランティア(以下関ボラ)の発足は、日頃から互いに交流のあった京阪神地区のアトリエ事務所を主宰する30代から40代の建築家達の集まりである。震災のあまりの悲惨さ故に、参加メンバーの輪が、都市プランナー、建築構造士等、自然と拡がったボランティア組織であり、人道的な緊急的対応の活動で始まった。建築家のNPO団体でもなく、本格的事務局を置き団体組織を形成しているものでもなく、呼びかけ人として私が一時のまとめ役になっただけであった。被災者の不安をやわらげるためメンタルケアーを重点に、そして応急の救済である仮設住宅の提案例(プロジェクト解援隊、木造簡易住宅、50万円プロジェクト、B.A.C.Hプロジェクト等)を示し、緊急時には団体的制約のない、迅速かつ柔軟性を必要とする状況に対し、我々のフットワークの軽さとチームワークの力が十分に発揮できたと思えるのである。
そのフットワークの軽さ故に、その後も周囲からの期待が徐々にふくらんだと言える。これまでに経験のない出来事に初期の2〜3か月間は、1週間刻みで変化が起こっていた。この間にも、我々は一方で自分たちの仕事を手掛けながら休みのない日々を送っていた。我々のようなアトリエ事務所は、自分が動かないと事務所が動かないのが定めであり、ボランティアとの両立は大変で、どろ沼のように長期化するボランティア活動は、体力的、精神的にも疲れをもたらし、経済的にも個人の負担を随分と強いたものであった。
本来のボランティア活動そのものは、初期段階の緊急的な人道的ボランティアをなし得た時点で、我々の役割もすでにその使命はおえていて、一時期、60事務所に膨らみ、協力された所員を含めれば200人以上の人が活動に参加していたのだが、第一段階の活動が終了したその時点で関ボラメンバーも徐々に減り始めた。
震災から3ヶ月が過ぎると、連日の報道もおさまり避難所生活者も減り始め、街にも生活感がもどりつつあった。緊急の人命救助から、被災民に対する応急の救済処置へ、そして、ライフライン、鉄道、道路網の復旧は日夜進んでいるように見えるのだが、本格的な復興にはまだ時間を要し、足踏み状態であるように見えた。しかし長期的視点に立った復興ビジョンの取り組みが必要な時期に来ていると感じていた。週末には東灘区の魚崎地区の避難所に出向いているのだが、大阪から神戸に向い、河川を渡るたびに増えるブルーシートの掛けられた屋根の風景はいまだいっこうに変わる気配はなかった。
経過と共に活動内容も、人道的見地から住民支援へと移行していった。当然、我々は、実践的に建設に携わることを望み、我々の最も力を発揮できるのも、ビジョンを提案することだろうと、また、そうでないと我々の参加している意味は無いだろうと考えていた。
復興を急ぐあまり、行政のプロジェクトが、これまでの地域文化を失った、ただ新たな無味乾燥な建築が並ぶ建替え事業であるなら、行政による規制をかけず放って置くのと変わりはない。従前のコミュニティーには、それなりの地区住民のアイデンティティはあったはずであり、これまでの街の記憶が失われてゆくことに危機感を持つのは、当然であろう。豊かさは、決して安全性だけでは語れないはずである。
現在、都市形成の未来を決定する岐路に立っている。これだけの先進経済国でありながらビジョンの無いモデルを示すだけでは、あまりにもお粗末ではないか。早い、安い、丈夫は次世紀のキーワードにはなりえないのは誰もが感じているはずである。
少しでも住民意識を高め、あわてずにまちづくりの糸口を掴むことを期待していた。
我々は、東灘区の魚崎地区の小学校に設けられた避難所を拠点に、この小学校を中心とした近隣住区の地区計画を、無秩序な、又は、単なる再建にならないような街つくりの為にも、復興に向けてのモデルケースとして捕えたいと思い、かかわった。
この避難所からのボトムアップ的な方式による復興への試みとして、我々は魚崎地区対策本部と一体で、街づくり構想を推進する復興プロジェクトチームを結成し、どのような方法で住民本位の地区復興が可能なのか、また、住民の街づくり意識をどう高め、コンセンサスを獲ていくかを模索しながら取り組んだ。東灘の魚崎地区のまちづくりのために隔月で何度もシンポジウムを開催し、住宅や共同建て替えの相談やアドバイスなど、ボトムアップとなる支援に取り組んだ。しかし、打てば響くような、強い住民からの反応、そして期待されたその成果が思うように進まないのが現状であった。疲れ切った被災民達にとっては、まちづくりは、現実味のない浮いたものであったのだろうか。
半年が経ち、関ボラのメンバーで構成された魚崎まちづくり支援研究会を発足し、地区調査を始めた。神戸市の協力と支援により、この魚崎地区のこれからのまちづくりを考えるための基礎的な調査を行うことになり、魚崎全体の状況を把握し、現実的な復興計画を立てる上での課題を見つけ、住民がどんなまちづくりを望んでいるかを知るためのものであった。
 我々、関西建築家ボランティアが行なった家屋診断は、精神的に不安定な被災民に対し、技術的サポートより不安を取り除くメンタルケアに重点を置いて行なわれ、実際にその必要性を直接感じた体験であった。また、魚崎地区の避難所ではようやく高倍率のプレハブの仮設住宅に移った被災民もコミュニティのない住居群の不安から日中はもとの避難所に戻り、子供達は友を求め遊びに来ている。またマンションなど共同建て替えの問題も実際話を聞いて見ると、互いの利害関係や経済面もさることながら、住民達の人間関係が大きなウエイトを示している。これからの被災者は、もちろん生活の行先不安はつのるばかりである。
 一方、被災民の住宅問題および商業地の復興は最重要課題であるが、震災による経済的打撃も大きなものである。長期的に見れば、居住地の復興は可能であっても、住民の生活を支えるべき地区の経済的基盤の空洞化は避けられず、数年後には仮設住宅のベッドタウン化した町になってしまう危険性がある。例えば神戸の海運会社や企業など港湾空洞化は深刻であり、震災を機に企業が他港の大阪、名古屋、横浜へとシフトし、そのまま戻らない恐れも多分にあるからである。また、魚崎地区でも老舗の酒造会社が集積しているのだが、酒蔵が倒壊し、銘柄だけを残し、全く移転してしまったところもある。街づくりのための復興は、安易な他府県からの復興応援だけでは行政の依存応援となっても、地元には経済的メリットはない。
生活と産業の拠点として再生するシステムを考えておかなければならない。また、歴史的、文化的な建築物や環境の保存再生を通じた地区の特性を生かし、住民の自主的、自立的方法を探らなければならない。当然、結果的に建築が出現し災害の教訓と安全性は考慮しなければならないが、より目に見えないところの計画の重要性がこれから進められなければならない課題として多分にあると思った。
震災後1年目をむかえる時点では、この地域調査もちょうど終わろうとしていた。これまで関ボラの毎回開かれた会議で集められたカンパだけでまかなわれていたが、我々の活動も認知されたのか、HAL基金から助成を受け、1年を過ぎて魚崎現地にもスーパーハウスの仮設事務所を設けることができた。
この時期、全体は大別すると3つのグループに区別でき、一つは大阪大学の加藤晃一氏をまとめ役に、魚崎まちづくり支援研究会の地域調査チームで、調査地域を主メンバー16名で分担し学生と協力事務所で6つのブロック担当を決め、きめ細かい現地調査を行った。そして現地の東灘に住む野崎隆一氏をリーダーとする、地元で実現に向けて魚崎市場、そして甲南市場及び商店街の再建や共同住宅のプロジェクトの相談に乗るチーム、そして中井清志氏をリーダーに、従前の魚崎郷の酒倉の持つ景観を取り戻そうと酒蔵を復興する会を発足し、地域性と自然とをテーマとしたフォリーを使った元気の出るような計画案や、酒樽を使った写真展のイベント等、各リーダーを中心に活動が進められている。関ボラによる建築の提案はあっても実際の設計の仕事には、今のところなかなか結びついてはいない。一方、現実はハウスメーカーの住宅が、そして行政サイドの何でもない復興住宅の建設が、予測通り急速な勢いで進んでいるのが現状であり、現実と我々の意図したこととは隔たりがあると言わざるを得ない。
例えば酒蔵地域に建設される県営住宅に対し、その地域性が練られた、住民側からの計画案として提出された久保清一氏案も行政サイドに押し切られた形で、おきまりの県営住宅の建設が進められている。
2年目の後半になると、我々の活動も長期化する住民支援に対する慢性的疲れを感じ始め、関ボラ会議に参加する義務感と、底知れない支援に対する強迫観念に包まれ、全体としての取るべき方向性を見失い始め、徐々に関ボラの活動も始めの団体的行動から離れ、もう少しリラックスした小グループまたは個人的な活動へと移行していく。
結果的にボランティアとは個人的参加であり、その人の意志によって定まることであり、それが自然な成り行きである。しかし、活動の背後に仲間達の支えがあるという安心感が残り、関ボラメンバー達は何らかの形で震災に直面し、被災者に個人的に関わっている。私の知る限り、魚崎地区に関わらず、実際的な仕事を通し、又、時間とエネルギーのいる共同化への住民支援、復興イベントなど、決して、報酬にむくわれない支援活動を今もつづけられている。
現在、関ボラの全体活動は、休眠しているが、関ボラメンバーのシャドーネットワークは、確実に形成され、緊急時に、いつでも再起動が可能な体制が組み立てられたと思っている。建築に携わる者として少しでも社会に責任を果たせたこと、また建築家の善意が被災者に示せたことに改めて初期に参加された関ボラメンバー達に感謝したい。そして我々小さなアトリエ事務所の存在も決して捨てたものではないと私は確信している。

木村博昭 1996/12/9(住宅特集原稿 )