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関西建築家ボランティアの活動報告1 1995.04

阪神大震災の現場からー震災4週間目のレポート

 1995年1月17日5時46分激震が起こった。私は大阪市内のマンションに住んでいる。早起きの苦手な私には、まだ夢の中の出来事のようで、只事でない揺れに暗闇の中を飛び起きた。飛び起きたといっても立ち上がれず、布団の上に四つ這いのまま、ますます激しくなる揺れを感じながら何も出来ず、ただおさまるのを待った。幸い大した被害は無かった。
 地震で目覚めたその瞬間から、意識ははっきりとし、その間数十秒間であろうが随分と永く感じた。不思議と恐怖感よりも、建築設計者の性分だろう、建築工事中の建物は、そしてこれまで手がけた建物は大丈夫だろうか、これは大変なことになるだろうと、同時に色々な心配が脳裏を走った。
 早々に事務所に出向いたが、大正時代に作られた我が事務所のビルも無事だった。室内は荒れ放題で、いくつかの模型が大破したが、他には大した被害は無かった。安否が気掛かりで方々に電話をかけたが、市外通話も携帯電話も思うように通じない。交通機関は全面ストップ、サイレンはとめど無く鳴り響き、街中パニック状態だった。TVニュースは徐々に地震の全貌を現わし、災害の深刻さを伝え始めた。
 調度、この朝、伊丹駅内でスタッフと待ち合わせの予定だったので、ニュースで駅が倒壊している信じられない画面が流れ、ゾーッとした。建築中の伊丹と西宮の現場が心配で、取り急ぎ現地に走った。
 私の事務所の工事中の建築には、ほとんど損傷が無く、ひと安心であった。しかし、川を越え、西に進むに連れ、被災状況は段々ひどくなり、呆然とする。倒壊した建物のガレキが道をふさぎ、堅固なコンクリートの高架が鉄筋をむき出しに崩れ落ち、まるで映画のセットでも見ているような現実感の無い光景だった。これまで建築物がこんなにいとも易く倒壊するとは、思いもしなかったことだ。忘れることの出来ないショックな光景だった。恐らく一瞬の出来事であったろう、倒壊した建物で亡くなられた方、そして暗い寒空の中を命からがら避難された人達を思うといたたまれなかった。我々建築に携わる者は、天災に対して何と無力だったのだろうか。一体今まで我々は何をしてきたんだろうか、人を守るはずの建築が、人の命もろともこんなにズタズタにされてしまうとは。計画やデザインなどとは無関係な次元の問題であった。


2週間目、ボランティア活動開始
TVニュースは、増々災害の深刻さを伝え、被災者は増加するばかりだが、大阪周辺はもう通常に機能していた。それでも呆然とTVニュースに見入ってしまう。30万人もの人々が、いつまで続くかわからない過酷な避難所生活を強いられているというその現実は、あまりにも重苦しかった。行政は、仮設住宅等の対策に着手したというものの、これほどの壊滅的な非常事態に、なすすべがあるとは思えなかった。現に被災者の人々の住宅確保に対する不安の声が、ニュースを通して聞こえてくる。
 この事態に、建築設計に携わる我々が一体何をするべきなのか、何が出来るのか。ボランティア活動に縁遠い、そして社会性に乏しいアトリエ事務所の我々であるが、話し合う機会を緊急に設け、日頃から親交のある40人程の、関西でアトリエ事務所を主宰する30代から40代の建築家に連絡をとった。大災害発生の1週間後の1月25日に集まり、被災地支援のための会議を開いた。
 建築家としてすべきことは、被災住宅の応急処置から復興都市のヴィジョンまで、様々なレベルのことが考えられたが、緊急会議の主旨として、すぐに緊急支援行動をスタートさせるべく、まずは被災地に足を運び、住宅の被災度診断を行い、その際できるだけ包括的に被災者の相談に応じて不安を軽くするメンタルケアを念頭に置くことを決議し、「関西建築家ボランティア」と名付け、独自の活動を始めることにした。翌日から、被災者から直接電話で受け付けた被災家屋の調査のため、下げ振りや水準器を手に、メンバー各自が被災地へ散った。
 
震災3週間目 テクニカルサポートを始める
 ボランティア活動開始の2週間目には、早々とテレビ、新聞などのマスコミからの取材申し入れが始まった。災害に対し、我々建築家への社会の期待がそれだけ大きいと言うことだろう。そして、どれだけ答えることが出来るかが問われているのだろう。家屋被災度診断をすすめるうちに判ってきたことは、構造体に支障の少ない軽微なものも含め、応急処置を施せば使用可能な家屋も多いことだった。避難所生活をしている人が一人でも多く自宅に帰れるように、このような家屋に対するテクニカルなサポートに取り組み始めた。メンバーの北村陸夫氏からは「50万プロジェクト」の提案があった。具体的には、メンバー各自が、必要であれば工務店に協力を要請し、応急処置として半年から1年は住める状態に最低必要な程度の、費用としては50万円を限度とする仮復旧工事を行い、被災者達に本格的な復興に対し、じっくりと取り組むための時間の余裕を与える、というもので、これは仮設住宅の不足分を補い、また廃材処理や建築資材の枯渇と言った懸念される問題も軽減する提案である。
 日増しに被災者の住宅相談は増え、被災地全地域から問い合わせがあり、相談は、200件を越え始めた。始めの1〜2週間は、私の事務所が仮事務局であったが、関西建築家ボランティアの専用電話も特設し、これから何年続くかわからない長期戦に備え、本格的な事務局を設置することも我々は考えている。

震災4週間目 長期的視点に立つ
 1週間おきに支援会議を開き、刻々と変化する被災地の状況を見据え、互いの連携と個人活動を確認しながら、現状対策と中長期的視点に立つ両輪の活動を進め始めている。
 自然と活動範囲も拡がり始めた。建築構造士の方にも協力頂き、これまで相談に乗れなかった、規模の大きな社会問題になりつつある建築の相談も可能になった。また、直接避難所のボランティア・リーダーとの連携プレーで被災者の救済も始めた。メンバー達からも復興に対する中長期的意見も出始め、グルーピング作業を進めている。
 中長期的視点に立てば、震災からの復興に対し、我々建築家の立場として、提言やヴィジョンを示すことは無論必要であるし、本来我々が力を発揮できるのは、復興計画を示すことだろう。しかし被災者の立場に立てば、今は救済が優先するだろう。復旧を急ぐあまり、安易なトップダウン方式の都市計画は望ましくない。明日の事、そして1週間先、1ヵ月先の事を望む人達に、夢と希望の復興ヴィジョンを提示しても、かけ離れたものになるのではないか。健全な復興は、被災者達の立ち上がる意思であり、ボトムアップから始まるのではないか、まだその環境が成熟していない状況ではないだろうか。
 関西建築家ボランティアに参加している我々は、この先も建築を造っていくのである。
我々の復興に対する社会的提言は、民間レベルでも少しづつ具体的に建築の中に実現されていくだろう。かつての関東大震災後に建てられた同潤会アパートの例えのようにである。我々は、あまりにも大きな犠牲を払ったのだから。これは、建築家の使命であるはずである。

木村博昭 1995/2/22(住宅特集原稿 )